アキバの通り魔事件から、まもなく一週間が過ぎようとしている。
その間、案の定メディアでいろいろな人がいろいろなことを言った。
いわく「彼をここまで追い込んだ格差社会が悪い」。
いわく「いやいや、しょせん彼は身勝手な男」。
「彼のしたことは許されないことだが、彼のような人間を生んだ社会に問題がある」。
「格差社会は問題だが、それと彼の犯罪とを結びつけることには無理がある」。
ぶろぐるの意見は、無責任なようだけど、「どちらも正しい」。
たしかに社会は悪い。しかし、だからといって、やっていいことと悪いことがある。歩行者天国にトラックで猛スピードで突っ込んで、通行人をなぎ倒し、あまつさえナイフで刺しまくるなんて言語道断だ。アキバ系の男子女子にも、またそうでない方たちにも、それぞれの人生というものはあったろう。それを奪い去ってしまう権利は、だれにもない。容疑者の極刑は当然だろう。
しかし一方で、彼も悪いが、社会はもっとひどいことになっていると思う。若い人たちが働けど働けど報われることのない社会。特に派遣社員は、会社から理不尽なまでに安い給料でこき使われ、挙げ句に簡単にクビを切られる。アパート借りて住むにもお金がなく、ネットカフェで寝泊まりする毎日。女の子なんか、そこで体を売って生計を立てているって週刊誌に書いてたっけ。地方紙で年配の派遣労働者が「甘ったれるな」と言っていたが、容疑者のような若者が最下層であることに変わりはなかろう。『蟹工船』が読まれるゆえんである。
だから、彼の内面の声に極力耳を傾けると同時に、社会にも目を向ける必要がある。
ところが、今の論調を見ていると、まず間違いなく、どちらかを「しかし」の後に持ってきてんだよね。
現代文読解のテクニックで、「しかし」系の逆説の接続詞の後には必ず大事なことを言っている、というのがある。
極論すれば、逆に「しかし」以前の言葉は、枕詞のようなものだ。
つまり、「しかし」以前の言葉は、大して意味がない。
容疑者個人の問題とするか、社会全体で考えていかなければならない問題とするか。
どちらかに偏るのでなく、どちらも真剣に考えていかなければならない問題だと思う。
それにしても、一部メディアで言われているような「世代論」にはちょっと違和感を覚える。
容疑者は、あの「酒鬼薔薇」と同じ世代。
だからあの世代は危ないよ。
じゃあ聞くけど、大量殺人をした奴がいる世代が危ないのなら、
小平義雄と同じ世代は危ないの?
大久保清と同じ世代は?
勝田清孝や宅間守はどうなんですか?
決めつけは危ない。
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